河野慶三コラム 産業医の方へ

第29回 産業医が従業員の治療を行うことの問題点
2020年 6月1日

1. 事業者は、従業員の健康障害を治療することについて、法的義務を負っていない
 産業医と従業員との間には契約関係は存在せず、両者の関係は事業者を介した間接的なものである

 事業者と従業員との関係を規定しているのは、両者が交わした労働契約である。事業者には労働契約法上、従業員に対する安全配慮義務が課されている(第5条)。安全配慮義務には、従業員の健康状態を把握し、健康問題を抱える従業員に対して医師による診断・治療を受けるように勧奨することは含まれているが、治療を行うことまでは含まれていない(労働基準法の定める業務上の疾病については、治療に要した費用の支払いが事業者の義務とされている)。

 産業医は、労働安全衛生法の定めに従って事業者と産業医契約を結び、事業者が安全配慮義務を的確に履行するための支援を医学的な知見にもとづいて行っている。産業医活動では、事業所の実態を踏まえて、労働安全衛生法で定められた施策が優先して推進されるが、労働安全衛生法は事業者が従業員の健康障害を治療することについては何も規定していない。

 たしかに、たとえば高血圧などの生活習慣病の薬物治療を継続していくうえで、企業内診療所が一定の機能を果たすことは理解できる。事業者がそれを望み、産業医もそうしたいとうことであれば、それはそれでよい。ただし、産業医と従業員の間には契約関係が存在せず、両者の関係は事業者を介した間接的なものなので、事業者が企業内に診療所を開設し、医師が産業医契約に加えてその診療所の医師として契約することが必要である。

 医師による治療は、従業員である患者の直接の申し出を受け、医師がそれに応じることで成立する診療契約にもとづく行為である。医師法は、診療をした医師に診療録の作成を義務づけている(医師法第24条第1項)。したがって、治療を行った医師は、当該従業員の診療録を作成しなければならない。

 もちろん、産業医が、個々の従業員と面接した場合にも、その記録を作成しなければならない。この活動は診療契約にもとづくものではないので、面接記録として、診療録とは独立したものとして作成する必要がある。

 たとえば、労災の申請を労働者やその家族が行った場合、事業者は労働基準監督署から産業医の面接記録を含む種々記録の提出を求められるが、診療録を出す必要は原則としてない。現在でも散見される、診療録の中に面接記録が保存されているケースでは、提出に際して、面接記録のみを抜き出す作業が必要となる。これは記録の改竄に繋がりやすい、もしくは改竄したのではないかという疑念を抱かせやすい、リスクのある行為である。

2. 「個人情報保護法」は個人の健康情報を「要配慮個人情報」と定めている

 個人情報保護法は、個人の健康情報を要配慮個人情報(不当な差別、偏見その他不利益が生じないようにその取扱いに特に配慮を要するもの)として指定し、本人の同意のない使用を禁じている(人事・総務向け第4回参照)。使用するには、いくつかの例外を除き、その都度、本人の同意を得なければならない。

 一人の医師が産業医と治療医とを兼ねていると、時間の経過とともに情報量が増え、医師の記憶に蓄積された健康情報が、産業医として得たものなのか、治療医として得たものなのかが判然としない状態が生じる。記録を確認すればそれが明らかになるとしても、産業医活動によって得られた健康情報を治療医としての活動には使う、もしくは治療医として得た情報を産業医活動に使うためには、個人情報保護法上いちいち本人の同意を得なければならない。これは、現実には相当煩雑な作業であるが、そうしないで情報を使うことは違法である。

3. Criticalな状況下で医師に生じる葛藤

 ここでは、具体的な例として休職者の職場復帰を取り上げる。

 職場復帰の可否とその方法を決定する最終的な権限が労働契約の当事者である事業者にあることは、周知のとおりである。事業者には決定のための手続きとして、当該休職者の自発的な職場復帰の意思を確認をすること、復帰の可否とその方法の判断に必要な情報を治療を担当している医師および産業医の双方から集めることが求められている。

 治療医は一般に、症状、検査結果の異常が消失するなど、健康状態が回復し、家庭での日常生活に支障がないことが確認できれば、復帰可能と判断している。従業員の健康障害の内容は多岐にわたっており、治療医はその領域を専門とする医師なので、その判断は尊重されるべきものである。他方、それはあくまでも通勤を含む労働負荷のない状況下での判断であることも事実である。通勤が独力で安全にできるか、生活リズムが勤務に支障のない状態で維持されているか、通勤を含む労働負荷が健康状態を悪化させる危険性がどの程度あるのかなどについて、当該従業員の労働実態を踏まえた判断も、当然必要である。この役割は産業医が担うが、それは産業医がその立場上、「職場環境を含む従業員の労働実態を把握している」と考えられているからである。

 結果として、治療医は「復帰可」としても、産業医が「復帰不可」とする事例が出現することがある。この判断の違いは、数値、画像など客観的な判断材料がある身体疾患と比べ、そうした判断材料に欠けるメンタルヘルス不調では生じやすい。

 もちろん、産業医が治療医を兼ねている場合でも、こうした現象は生じうる。一人の医師が、治療医の立場からは診療契約にもとづき可能なかぎり患者である従業員の復帰希望に沿いたいが、従業員の労働実態を踏まえると産業医の立場ではその希望に沿った判断はできないといった事態に直面することになり、ジレンマに陥ってしまう。職場復帰のもつれが訴訟に持ち込まれる事態では、産業医がそうした問題が生ずる可能性を予見できたにもかかわらず、それを回避するための行動をしなかったこと、そのことが争いの対象となるリスクもあるのである。

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このコラムの執筆者プロフィール

河野慶三先生

河野 慶三 氏(新横浜ウエルネスセンター所長)

名古屋大学第一内科にて、神経内科・心身医学について臨床研究。
厚生省・労働省技官として各種施策に携わる。
産業医科大学、自治医科大学助教授など歴任。
富士ゼロックスにて17年間にわたり産業医活動。
河野慶三産業医事務所設立。
日本産業カウンセラー協会会長歴任。
平成29年より新横浜ウエルネスセンター所長に就任。